薬学と私
第63回「抗体創薬にかける思い」
東北大学大学院医学系研究科 教授
加藤幸成 先生
薬学との出会い
私が高校生の頃、担任の先生に何度も進路相談したことを今でも鮮明に覚えています。やりたいことが見つからずに悩んでいました。どのような職に就きたいか、地元(富山生まれの富山育ちです)で働きたいのか都会で働きたいのか、一切何も思い浮かびませんでした。そんな中、思い切って1年生の担任の先生に進路相談をした時、「迷っているなら理系に進みなさい。将来チャンスが広がるぞ。」と指導され、そんな単純な理由で2年生から理系に進みました。あっと言う間に大学受験の時期になり、その時期になっても学部も学科も選ぶことができず、東大理科I類を志願しました。幸い、英語や古文・漢文などの文系科目が得意だったこともあり、なんとか合格させてもらいました。その後も、苦手科目の物理に加え、数学や化学までもが全く理解できず、とうとう落ちこぼれてしまいました。そんな中、2年生の進学振り分けの時期が来てしまい、思いがけず「薬学部」の文字が目に入りました。私にも薬学部に行くチャンスがあるのか?と疑いましたが、ここまで落ちこぼれてしまったら、直感に頼るしかありません。当然、進級後に苦労したのは言うまでもありません。講義も全く理解できない時期が続きました。3年生の薬学実習などは、まさに地獄の連続でした。
薬学部の素晴らしい仲間との出会い
そんな落第生が、なぜこのような文章を書かせて頂いているのか?と不思議に思われていることでしょう。なぜこんな優等生の集まるところに来てしまったのか?と悩み続けました。そんな中、私を窮地から救ってくれる仲間が次々と現れました。
薬学部では、運動会、ボート大会、スキー合宿など、あらゆる行事があり、運動が比較的得意だった私は、積極的に参加しました。同級生みんなと話をする機会が増えました。また、3年生の薬学実習では、グループごとに行動するため、班員みんなが教えてくれました。実は、高校生の時も教養学部の時も、一切、生物学を学んでおらず、DNAやRNAも聞いたことがありませんでした。そんな無知な私に、一般書(〇〇学の勧めなどのタイトルの本)を片っ端から読むように勧めてくれました。すぐに本屋に行き、生物に関わる本をすべて購入し、何度も読んだことを覚えています。また、わからないことを必死に同級生に質問しました。みんな、とても親切に教えてくれました。そんな必死の生活を送っているうちに、いよいよ4年生からの研究室を選ぶ時期が来ました。
がん研究との出会い
配属研究室を選ぶにあたって、いくつかの研究室を見学しました。しかし、自分の取り組みたい研究テーマが見つかりませんでした。そんな中、分子細胞生物学研究所の鶴尾隆教授の研究室をふらっと訪問した際、何だか魅力的な研究室だと感じました。何の根拠もない、またしても直感です。自信を完全に失っていましたし、専門的なことも何もわかりませんので、とりあえず教授に質問してみました。「私は生化学も何もわからないのですが、がん研究には興味があります。研究ができますでしょうか?」と聞いたのは今でもはっきり覚えています。鶴尾先生は、「私だって生化学は理解してないよ。」というのが返事でした。すぐに鶴尾先生の研究室に決めました。幸い、希望者は私一人でしたので、抽選などもなく決定しました。さらに研究テーマは、がんの転移メカニズムの解明であり、これが私のがん研究者としての始まりでした。鶴尾先生は当時からがん研究の大御所だったわけですが、無知な私は、素直に鶴尾先生の誘いを受け入れたのです。全く恥ずかしい話です。
抗体との出会い
鶴尾先生の研究室で最初に学んだ技術は、モノクローナル抗体作製でした。当時、博士課程3年生の先輩(現在、がん研究会がん化学療法センター・所長)が懇切丁寧に教えてくださいました。これが、今の私の研究室の基盤技術開発に繋がっています。私の人生で初めて、新しい“モノ”を作る喜びを味わいました。しかも、サイエンスの要素だけでなく、私の得意な“根性”が必要な技術でした。簡単に言うと確率論ですので、やればやるほど、良い抗体が取れることがわかりました。4年生から修士課程までの合計3年間、ひたすら抗体作製に取り組みました。その成果を、米国のがん専門誌に掲載してもらうこともでき、研究者としての喜びも味わいました。同時に、このまま基礎研究を行っていて、何を目標にするべきなのか?という素朴な疑問が湧いてきました。迷わず、企業の研究者になることを決心しました。
企業研究者から医学者へ
せっかく基礎研究者として順調に歩み出し、教授からも博士課程に進むように勧められたのですが、突然、“創薬”ということを目指したくなりました。今では、大学でも創薬を目指す時代になりましたが、当時は、大学では基礎研究、というのが常識でした。私が持つ技術といえば、抗体作製技術でしたので、抗体が得意な製薬企業を選びました。
企業研究者をやる中で、またしても新たな目標が突然芽生えてきました。私の悪い癖です。それは、“医学を学びたい”という熱い気持ちです。病気を知らないのに、“創薬”などできるわけがないと思い始めました。“創薬”を達成するためには、“医学”を学ばなければいけない、という気持ちが捨てきれず、医学部に再入学しました。
医学部に入学したということは、人生振り出しに戻ったようなものです。当然、人生の焦りもあります。まずは、研究という仕事以外にとても興味のあった“薬剤師”の仕事に挑戦しました。大学生の休日をうまく利用し、調剤薬局で薬剤師の仕事をしました。医学部での生活は困窮していましたので、良い収入源にもなり、しかも薬剤師の勉強もでき、一石二鳥の医学生の生活がスタートしました。
医学部の2年生から、様々な講座での基礎実習が始まりました。そこで、多くの基礎研究者と話をする機会がありました。自然と、自分も研究者に戻りたい、という気持ちが湧いてきました。すぐに、私を受け入れてくれる研究室を探しましたが、私が厄介な学生だったのは、学生なのに研究テーマを持っていたことです。しかし、それを受け入れてくれた教授の先生が何人かいらっしゃいました。その先生方のおかげで、(ここは苦労の連続でしたが省略し)医学部6年生の夏に、東大薬学部で論文博士を取得しました。これが、その後、私が研究者として生きていくことを決定づけることになりました。ちなみに、医学部の勉強も一生懸命に頑張り、しっかりと医師免許も取りました。
米国での研究生活
高校生の時には、あれほど将来の夢が思い描けなかったのに、不思議なもので、次々にやりたいことが出てきてしまい、いくつものことを並行してやるようになっていました。しかし、並行してできないことが、海外での生活でした。小さい時から臆病で、何事も積極的に取り組めない小心者だったのですが、今しかない!!と思い、留学に挑戦しました。幸い、テキサス州ヒューストンにあるMDアンダーソン癌センターの研究室を紹介して頂き、ポスドクとして勤務を始めました。夢にまでみた留学生活でした。しかし、実際に研究室で働いてみると、これまで働いてきた日本の研究室と比べ、何もかもが遅れていました。日本が素晴らしいところであることを実感しました。何も成果を出していないにも関わらず、不思議とさらに挑戦したいという気持ちが湧いてきました。無謀にも、米国内で就職活動を行い、渡米から5ヶ月後には、ノースカロライナ州のDuke大学メディカルセンターのjunior facultyに採用されました。ここでは、脳腫瘍を標的とした抗体開発を、「自分のアイディアと技術でやりなさい」と、ボスのDr. Bignerに指示され、ひたすら研究に打ち込みました。短期間に、複数の新規抗体を作製し、論文発表も行い、私の自信にもなりました。ただ、そのような環境を作ってくれたのは、私を必死に支えてくれた妻の存在があったからだと思います。どんな苦労にも、いつも強気にふるまってくれましたので、異国での辛い生活も最後まで耐えることができました。ひとりでの留学では、これ程の成果は出せなかったと思います。
PIとしての独立、しかし、その後の複数の災い...
米国での研究生活に慣れた頃、日本からお誘いがありました。なんと、“PIとして独立しないか?”ということでした。すでに、研究テーマは山ほどありましたので、すぐに帰国を決断しました。第二の母校の山形大学医学部でしたので、周囲の先生方もとても協力的でした。
順調に日本での研究生活を再開した頃、2011年3月11日、東日本大震災が起きました。私はちょうど、ひとりで細胞培養をしていました。座っていられないくらいの揺れと同時に、部屋が真っ暗になりました。しかし、すぐに思ったのは、“この細胞をどこに保存しようか?”ということでした。とても大切な抗体産生細胞を扱っていたのです。それだけ研究に集中していたのでしょう。しかし、全く揺れがおさまらず、停電で真っ暗ですので、すぐに外に出て、情報収集をしました。東北地方が大変なことになっていたのです。
私たちへの災いは続きました。次は家族への災いです。米国生まれの次男が、震災から1ヶ月も経たない内に、難治性の病気になりました。24時間の付き添いとなり、全く仕事が継続できなくなりました。ここでも、特に妻が頑張りました。私たちは、何とか研究の夢を前進させるため、家族の命も救うため、全身全霊で頑張りました。山形大学の先生方、地域の方々、病院の先生方、田舎の両親、みんなが協力してくれました。どれだけ感謝をしても足りません。そして、まだ幼い長男も精一杯頑張りました。自分の夢を実現するには、どれだけ多くの方々の助けが必要なのかと実感しました。その思いは、今の研究室運営にも常に活かしています。
すべては患者さんの命を救うため、そして家族の命を救うため
本来、私の専門分野の話を書かなければならないかもしれませんが、それは、是非、私のホームページをご覧ください。これまで、あらゆる環境で研究生活を行ってきましたが、その集大成がこの“抗体創薬研究分野”という研究室です。抗体をサイエンスとして研究し、“すべては患者さんの命を救うため”ということをラボのテーマとして研究開発を行なっています。さらに、“患者さんのQOLを上げるため”というのも重要なテーマです。がんを直すだけでなく、抗体医薬による副作用を最小限にできるような“がん特異的抗体”の開発がメインテーマです。
個人的なことではありますが、最近、人生における重要な研究テーマが出てきました。それは、“家族の命を救うため”ということです。実は、慢性疾患に苦しんでいた次男が、ある有名な抗体医薬の適応になり、寛解状態が3年以上も維持しています。奇跡的なことです。自分の研究テーマである抗体創薬が、家族も救ってくれたのです。これ程の喜びはありません。患者さんを救える抗体医薬を作りたい、という気持ちがさらに強くなりました。自分が患者側になってわかったことは大きいです。
薬学と私
一体、私にとって“薬学”とは何なんだろう?とあらためて考えてみました。最初に書いた通り、私は“薬の富山”の生まれなのですが、富山にいる時は、薬学も医学も何も気にしていませんでした。それが今は、創薬を医学部で実施するという、高校生の時には思ってもいな状況です。もし、これから薬学を志す高校生、あるいは薬剤師を目指して勉強されている薬学部の学生さんがいらっしゃれば、“そんな自由な人生を歩んでいる先輩もいるんだな”と思って頂ければ、少しは私も役に立てたかな、と思っているところです。私にとって薬学は、そんな自由な学問だと思っています。
私は今、多くの共同研究者の先生方と一緒に研究をしていますが、医学、薬学、歯学、理学、工学、農学、獣医学と、多岐に渡っています。また、多くの企業とも共同開発を実施中です。
いつか、みなさんとも一緒に研究をできることを夢見て、コラムを終えたいと思います。
東北大学医学部・加藤研究室のホームページ
http://www.med-tohoku-antibody.com/index.htm